くぐつ島生活記

山登りは自分で学ぶ。本をたくさん読む。それが生活のきまり

Category: 読書

アンブロークンアロー

アンブロークンアロー―戦闘妖精・雪風
 
まだ半分くらいしか読んでないけど、あまりに面白くて書いてみた。
 
前作「グッドラック 戦闘妖精・雪風」からの10年ぶりの続編。
 
まったく、ゾクゾクする。
ここまで自分好みの小説は他にない。
 
この表紙の絵を見ただけでも卒倒しそうになるくらい。
 
これやっぱアニメとかにはできないね。いやすでに完結しているアニメ作品があって、それはそれで良くできているとは思うけど、今度のヤツは完全にムリ。映像化は不可能。仮に誰かが作ったとしても、自分が今読んでて見ている世界は、本当に自分だけのモノ過ぎて、他者が作ることはほとんどないだろう。
 
いやでも本当に面白い。
というか凄い。凄すぎる。
 
マシンと人とがお互いを必要とし合う関係を見いだした、というお話が、それをもっと超えた先に突き進んでいる・・。
 
 
自分は、なんて面白くて凄い世界に生きているんだろうとつくづく思うよ。
 
人間という生き物として生き続けることが、こんなにも楽しく、ワクワクしたものに感じられるなんて。
 

天安門文書読了

前回のはこちら
http://d.kugutsu-tou.jp/article/29900618.html

何が起きていたのか、その前兆から最後の結末まで、本当によく理解した。確かに真偽判定云々というのはあるのだろうけど、それでも、自分がこれまで持っていた、いわゆる一般的に誇張されているような先入認識はほぼ完全になくなったと思う。公文書の集積と抜粋の構成に、その背景などの解説だけで、これほどまでに臨場感に富んでいて、一貫性があり、当時の状況がありありと伝わってくる本というのは、なかなかに貴重な存在なのではないだろうか。
 
また、無学な自分にとっては様々な面で勉強になる本だった。
 
中国共産党の政治や統治、政治家と民衆の関係などについては、全く詳しくなかったので、見るもの全てが新鮮で、知的な刺激になった。そもそも共産主義指導部の内部なんて、ここまで詳細に知り得る機会なんてあろうはずもなく、何となく一般的に持っているイメージだけが先行するだけであったのだが、その、どちらかというと「悪」のような独裁的なイメージが、読み進めていく中できれいに正された。
正されたというのは、実は善だった、というような単純なことではなく、ある立ち位置から見た場合において「悪」と認識される存在が、その者の側の立ち位置に立って見てみると、どうしてそう見られてしまうのか、また、どのような意志や考えからその行動を取っているのか・・ということなどを詳細に知るに至った、ということである。
 
もちろん、共産党の統治を日本で行ったら「悪」以外の何者でもないとは思う。特に言論、報道、表現などに関する基本的な自由は制限されるし、党中央の指導によって何もかもが強制的に取り決められる(確か今日のニュースで、白酒の消費税が突然跳ね上がったという話もあった)。正直言って自分が住みたいと思う社会ではない。
 
しかしながら、この文書を読んでいくと、党中央の指導部が中国を安定して統治し、経済力や国力を健全に向上させ続けるには、共産主義こそが最も適していると信じて疑わず、そして、極めて強い一貫性を持って、それを貫き通そうとする姿勢がありありと伝わってくる。自分の社会とは全く価値観の異なる世界でありながら、その姿になぜだかとても真摯な精神を見たような気がして、不思議と心が惹かれるのを感じた。
 
とりわけ「血の弾圧」以後の、1989年6月16日の鄧小平による新指導部への訓示と、6月23日-24日の第十三期四中総会における、失脚した趙紫陽による弁明については、あまりに強靱な一貫性と、一点の曇りもない明確さ、自らの行いこそが国のためになると信じて疑わない鉄の信念が伝わってきて、不覚にも読んでて感動すら覚えてしまった。もちろん文書の作り出しているイメージであるかもしれないが、仮に創作だったとしても、それでも自分の中に描かれたそれぞれの人物像は、これまで全く見たことのない高い知性と気高い意志を持つ政治家だった。鄧小平と趙紫陽は、結果として、縁が切れることとなってしまった二人ではあるが、それでも確かに師弟の間柄であったことが、それぞれの正反対の立ち位置による言葉を通じて感じることができた。
 
同様の印象は、この本の編者である「張良」のまえがきからも感じた。
 
「共産党の崩壊は外部勢力ではなく党員自身の手で初めて実現するだろう。」 - まえがき 10ページ上段より

これは、編者自身の願いでもあるそうなのだが、この文書を読む限りでは、それは確かにその通りだろうと思う。中国自身が大きく変化することがあるとしたら、それは彼ら自身が彼ら自身の判断によってのみ行われるだろう。特に明示できる根拠はないが、この文書を読むことによって、それを何となくでも確かに思えるようになるほど、中国に対する自分の理解が進んだように思う。
 
 
毎日少しずつ10日以上かけてゆっくり読んだ本で、自分にとっては久しぶりにボリュームのある内容であったが、終始とても楽しんで読んだ。長い本をゆっくりゆっくり読む楽しみを再発見したような心地よさが残っている。
 
現代中国を理解するための基礎本としてお薦めしたい一冊である。

天安門文書(まだ途中)

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4163581308
 
久々にまとまった長さの本。まだ半分くらいで、ちょうど趙紫陽が失脚して、戒厳令の発令が決断されたあたり。書店ではもう手に入らなくて、これまた久しぶりに図書館に行って借りてきた。
 
モーリー大学ではここ2週ほどイラン関係を中心に講義がされているんだけど、初回に天安門が取り上げられてからどうにも知りたくなって先週から手を出している。特に中国関係は、日本のネットにおける議論のフラット化に頭が巻き込まれそうになりがちなので、それに対する対抗意識を持つ意味もあって。
 
この本を読む前の自分の頭の中での天安門って、「学生が献花して、それが集会になって、大規模なデモになって、そして戦車で鎮圧された」って程度だったのだが、この本を読むと、それはまったくとんでもない略し方であることが分かる。
 
前半特に際立つのは、とにかく学生に対する当局側の譲歩。その対応は、普段自分が持っている中国のイメージからは大きくかけ離れてて、とにかく学生たちの運動で叫ばれていることは党の方針と合致していて愛国心に基づいたものであるから、それは尊重すべきであり、ましてや暴力などで妨げてはならない、との言葉がいろんな会議で幾度となく繰り返される。その上で、学生たちの運動に乗じて活動を行うとする分子を排除しようとすることに、当初はこだわり続けた。それらに関する会議の議論からは、とても若者想いな指導者たちの印象が伺えた。
 
だがしかし、問題になった人民日報社説や、趙紫陽失脚のくだりなんかは、現場はこんななのに、なんでそんな判断になるの?っていう決断が下されたりして、そのズレが、のちのちの状況につながっていく過程がリアルに伝わってくる。またそれが、ちょうど今の自分の仕事の状況とダブったりして、そんなヘンなところで妙に趙紫陽に共感した。別に、上層部や最終決定を行う人がいい加減だったりして、適当な判断になるとかではないのですよね。それぞれきちんと仕事をしている中で、視野の境界や溝が広がっていって、現実を反映していない決断が生み出されていくのです。
 
いくら品質を考えるからと言って、単純にコードの行数からテスト件数を割り出して作らせても、現実の品質にはつながらないとかね(笑)。不具合が予定の件数(?)に満たなければ、それは品質が悪いので、追加テストを実施しろとかね。なかなか政治的(というか契約的)決定の前では技術というのは実に無力であります。
 
あと面白いのは、この本を読んでいるうちに、社会の作られ方のようなものが何となく俯瞰できるようになっていること気づいたこと。もちろん本では、中国社会での事件を読んでいるのだけど、報告文書や記録文書ばかり読んでいるせいか、社会の大枠の動きを見る目ができてくる。そして、その俯瞰の目線は、普段見てる今の日本のニュースにも向けられるようになって、今までとは違った感じに物事を捉えるようになったような感じ。ニュースの見方も微妙に変化してて、その感覚が新鮮で面白いです。
 
来週中には何とか読み終わるつもり。

コードの世界

まつもとさんの「コードの世界」を読んだ。
http://www.amazon.co.jp/dp/4822234312
 
某書評にある通り、確かに中級向け。割と知ってることもそれなりにあったけど、でも言語開発者からの視点というのはあまり日本人ではお目にかかった事がなくて、とても新鮮な印象。終止楽しく読み進めた。特にRubyについては、そのエッセンスを濃く味わうことができて、仕様を知っていてもなかなか理解しにくい部分の視野が開けると思う。
 
まつもとさんのお人柄がよく表れている柔らかく明快な語り口も印象強いのだけど、でも一番身にしみて実感したのは何よりもバランス感覚。この業界ってほとんどは、自分がやってきたことにどんどん染まっていって、大小問わず何らかの偏りや、属性視野を感じさせる印象が必ずあるのだけど、まつもとさんの本を読んでいる限りは、「自他ともに認める日本を代表する言語オタク」というポジションでありながら、技術に対しては実に柔軟で、視野が広く、偏りも偏見も全く感じられない。それって結構すごいことだと思う。特に言語に関しては、とにかく世界中のあらゆるプログラミング言語が本当に好きで、長短それぞれ全部受け入れて、分け隔てなく愛でている様がよく伝わってきて、その趣味嗜好が、類いまれなバランス感覚の土台になっているように思える。
 
内容で目を引いたのは、やはりRubyにおけるオブジェクト指向に関する話。いわゆるデザインパターンについては、自分の場合は静的言語でがっつり仕込んでしまったので、動的言語におけるそれは、これまでどうにも想像がつかなかった。また、多重継承なんかは、頭では分かっていても、でもやはりJava/C#を書いてきた人にとっては大きなパラダイムシフトになるので、実開発で実装に適した局面が思いつかなくて、デザインパターンも見えてなかった。しかしなるほど、さすがに作った人の話は、とても具体的で実例にも富んで、目の前の霧がさーっと晴れて行くような明快さで、よく理解できた。特に多重継承は、別に、ある人がA部署の部長とB部署の部長を兼務しているから・・・なんてことを考えなくても、もっとプログラミングレベルで、Mixinがどうおいしいのかってことを見るとよく分かる。Rubyのオブジェクト指向ってこう使えばいいのかってことがとても実感できた。
 
あとは、やっぱりモンキーパッチングかな(笑)。ほとんど黒魔術的メタプログラミングの神髄みたいな。クラスの再オープンとかだけでも静的どっぷりの人にはおぉーって感じなのに、メソッドの取り消しとか置換ってどういうことですか(笑)。あとは文字コードの話。分かっちゃいるけど大変なんですよねえ。Windowsは何でUTF-16でこんな面倒くさい事態になったのかとかが分かって、今度からあたたかい目で接することができそうな感じ(笑)。でも、JISX2004対応なんて、専用のクラスとメソッドがあったとしても、まんべんなく対応しきるのは、今の現場のレベルじゃ到底無理だよなー。テーブルだってカラム多めにとっとかないといかんし、その上ストアドとか、SQLの途中で文字列いじることしてたりとか、そんなん全部フォローしきれるかって言うと、まあ・・悲観的にならざるを得ないわけで・・。
 
 
とまあ、そんな感じで、いろいろと勉強になることも多かったし、技術に対する非常に柔軟で、優れたバランス感覚なんかは、読んでて新しい好奇心を呼び起こされたし、有意義だったなあ・・・と思ってたら、ちょうどタイムリーに某所でまた釣り含みな静的×動的なエントリが上がってて、その真逆の姿を見たような感覚になった(笑)。
 
それにしてもFW込みで言語について語るのはどうなのかね。○○だから生産性は変わらないとか、釣りでも何でも、自分にはかなりどうでもいい議論にしか思えない。そもそも動的と静的を同じ土俵で比べて生産性がどうとかいうのはあまり意味がなくて、言語もアーキもFWも、どれも合目的的かどうかってとこがミソだと思うんだけどな。面倒だけどあえてそれを選択するってこともあるわけだし、事に会社だと、政治的な要素を無視できなくて、それを最小限に回避するための選択もしょっちゅうあるわけだし。あと、自分の場合は、技術者に対する性善説は、少なくとも今のフィールドでは全く考えてないです。むしろ、最近は完全にあきらめているくらい。もちろん一人一人を見たら・・ってことはあるし、それはきちんと見分けるけど、一般化して考える場合は、自発的な創造性は一切期待しない。なんでかっていうと、結局どこの会社もどの人も、ほぼ大半がリスクヘッジを全面に押し出してくるからですね。だから言われたことしか絶対にやらないし、標準が標準が、共通が共通がって言われ続けるし、「これだとコピペで作れないんですけど」って言われる事もよくあるし。だから、要素技術の選択とか基礎アーキの設計は、原則として性悪説込み込みで考える。世知辛いといえば世知辛いけど。でも自分だけは常に創造性を要求され続けられるわけだし(笑)。
 
そういやよく考えたら、これshellmakuraの方のネタだったな。まあいいか。日記日記。長いけど。

ウェブはバカと暇人のもの

「ウェブはバカと暇人のもの」
http://www.amazon.co.jp/dp/4334035027
 
これもモーリー大学関連で読んだ。
ネットの巷で話題の本。意外と見つけられなかった。
 
現場からのネット敗北宣言ってことで、ニュースサイト?を運営する現場の立場から見た、現代のネットユーザー達の生態本。日々大量のRSSを引き込んであれこれウォッチしている自分にとっては、釣り気味なタイトルの割には、まあ、なるほど、確かにそうだね、っていう内容だった。つまり、ネットで日々行われていることは、有名人の粗相に対して無関係な第三者たちが凄まじいクレームを付けたり、真面目なアンケートやランキングに対して、徒党を組んで何の関係もないものを投票して荒らしてみたり、誰かが何か言ったことに対してその人のキャリアが終ったと言わんばかりに批判をしたり、カレー食ったとか、パスタ食ったとか、映画見たとか、どうでもいいこと(もちろん自分のもです(笑))を書き散らしたりとかばかりであり、凄まじい量のハードウェアと電力、回線を擁した、人類史上かつてない規模とパワーを持つインフラストラクチャーを持ちながら、人々はそんな下らないやりとりしか行っていない、というようなことが書かれている。
 
なので、敗北宣言というのは文字通りである。当初ネットが生まれたときの夢見られていたもの、例えば、個人がメディアの力を持つ事になり、何者にも縛られずに限りなく自由に情報発信することができるとか、それによって人々のコミュニケーションが活発になって、多くの議論が行われ、よりよい社会を作ることにつながっていくとか・・・そんなようなビッグ・ピクチャーは全て嘘っぱちで、どれだけかかってもそんなものはできることはない、ネットはあなたの人生を何も変えないし、時間つぶしにしかならず、ましてやマーケティングなどには全く役に立たない、という結論で締めくくれられる。
 
このタイトルにどのような嫌悪感を感じようとも、この本に書かれていることは全て事実である。しかしながら、同じ事実として、エンジニアの世界ではネットによって大きく技術が進化したという話もある。たとえば、Linuxを筆頭とする、いわゆるオープンソースのソフトウェアは、インターネットがなければその進化はあり得なかったし、エンジニアにしかわからない話ではあるが、現在のシステム開発、ソフトウェア開発において、オープンソースソフトウェアやライブラリは、既になくてはならないほどまでに規模も技術も成長を遂げている。多くのブログやサイトがアップされているWebサーバーも、その大半はApacheと呼ばれる、オープンソースソフトウェアであるし、また行政や医療などにおいても様々なオープンソースソフトウェア利用されている。この動きは日本においても同様で、プログラミング言語Rubyを代表格に、様々なソフトウェアやライブラリ、フレームワークが、インターネットを土壌として開発され、社会にとって重要なシステムの基盤として利用されている。
 
このように、「ウェブはバカと暇人のもの」に書かれているようなことと、オープンソースソフトウェアの開発のようなことが並列に行われているのがインターネットであり、そのような視点で見ると、本当に「敗北」なのかというと、そうでもあるし、そうでもない、というのが実際のところであろう。
 
これを起点にして、モーリー大学での話も含めて、いろいろ考察がめぐってきたので、改めて別のエントリにする予定。

大麻入門

モーリー大学関連の勉強。
 
大麻といえば、スネークマンショーの「ポールマッカトニー取調室」を思い出すのだけど(笑)、ずいぶんその本当の姿を知った。参考図書はこれ。
 
大麻入門
http://www.amazon.co.jp/dp/434498112X

かなり面白くて一気に読み切った。
 
ネットにおける大麻関連の話って、いったいなんなのだろうっていつも思ってたけど、なるほどね、大麻とは何かってことを全然知らなかったことがよく分かりました(笑)。下北沢の「大麻堂」(本多のまん前にある(笑))もかなりいかがわしい響きを感じていたのだが、読んだ後はずいぶんイメージが変わった。
 
政府によって奨励され、日本中の至る所で栽培され、医療から産業、神事(注連縄とか相撲の横綱の綱にも大麻が使われている)に至るまで、あらゆる用途に利用されていた万能の植物である大麻草が、いかにして「麻薬の一種」として、GHQからポツダム命令として取締法が制定されたかというその歴史や、実際の大麻の中毒性(実はカフェインと同等程度で、アルコール、タバコよりも害が少ない)、現代の各国における大麻の取り扱い(少量であれば所持しても罰則にはならない国がいくつかある)、また医療用途としての大麻の効能や、繊維素材から建築資材、はたまたメルセデスベンツの車内の材料にまで使われている産業用材料としての大麻などの話が、とても分かりやすく詳細な説明で理解できる本。
 
なかでも第1章の「大麻禁止の歴史」が面白かった。
英仏の植民地政策の手法から、アヘン戦争、アメリカの台頭と繊維産業における覇権争い、そして太平洋戦争を経て、大麻が非合法なものとされていく過程が、実にダイナミックな関連を持って解説されていて、一つの植物が大きな歴史の流れに関わっていくロマンを見ているようだった。
 
現在では、特にEUの各国では、医療用や産業用としての大麻利用が進んでおり、またアジアでは中国が政府主導で大麻製品の生産を行っていたり、韓国でも研究開発が進められていたりしているのだが、わが国では、日々取締法違反の報道がセンセーショナルなものとして伝えられているに留まっているのが現状で、読みながら、その取締法の成立と守られ方に、いろんなところで時々感じる「拠り所のなさ」を見た気がした。
 
それはウチの業界で言うと「(開発)標準」とか「(開発)基準」の作られ方と守られ方に見て取れるものと同種のものであったり。

。前は微妙に説教くさい雰囲気を感じて手を出してなかったのだけど、登山関係ってことでさくりと読んでみたら面白くてたちまちハマった。山の日常って、死が常に生と同じくとっても身近で、それがきちんと受け入れられてて、生き生きと描かれてるのが素晴らしい。こんなにいい作品だとは思ってなかった。どうして危険な場所なのにみんな登るのか。高いところに登るだけで何が楽しいのか。そこに何があるのか。それらは全部、実際に登った者だけが理解できることなのだけれど、でも、その登った人たちが見ているものがとても真っ直ぐに描かれてる。それがあまりに豊かで美しいので、読んでるとめちゃめちゃ山に行きたくなってワクワクする。6月のは行けるといいな。登山靴買って、履き慣らすのに多摩川をテクテク歩いたり、高尾山とかに行っておきたくなる。
 
マンガ以外の読書量を増やしているうちに、じわじわと以前のように習慣づいてきてていい感じ。今のところ週1.5冊ペース。どうも今の仕事を始めてから、通勤は常に眠くて、土日は常に疲れてたりしてて、年々読書量が減ってきていたので、何とかして元に戻したいところ。
 
アニメは相変わらず週15本近く見てる。でも、月曜からは新しく学校のようなものが始まって、またいろいろ忙しくなるので、キープし続けられるか微妙。