ハリーポッターを全巻読了して、今日やっと映画も見終わって、何だかフワフワしたテンションなので、とりとめもなくなんか書いてみる。

「死の秘宝PART2」の映画は、あれだけの内容をなんとか2時間前後に帳尻を合わせてまとめきったというところなのだろう。シリーズ全体に言えることなんだろうけど、原作からすっとばされた部分は確かになくとも繋がることはできるけれど、でもやっぱキビシイよねってところだとは思う。ラストの映画は特に、これって原作者からよくOKがとれたなあというところも結構あった。かえってもったいない気がしてしまうのに、ベタベタのアクションにつなげるためにあえて原作を捨ててしまっているようなところがあるように思う。これがいわゆるハリウッドの限界なのだろう。

でもそれでも、原作読了してから見た自分には各所が頭の中で自動補完されていって、独自仕様のハリーポッターの映画が自分の中にはできあがり、途中のスネイプの場面なんかは感動にうち震えて一人静かに鳥肌を立ててたりもしていた。いやはや、「always」って言葉がこんなにも心に響くなんて。アラン・リックマンの台詞回しの力強さはいつも感心する。個人的には、セブルス・スネイプの方が主役でもいいくらい。彼のストーリー終盤の動きは、単なるつじつまなパーツに見えなくもないけれど、それでも、とても奥行きのある立ち位置を占めている。人はあれだけ報われることのない愛を持つことが本当にできるのだろうか。角度を変えてフォーカスをあててみれば、新しい軸が出てきて興味は尽きない。

興味が尽きないというと、やはり「死の秘宝」のおとぎ話だろう。これは何度見ても、何度読んでもゾクゾクする。結局「死」からは何があっても逃れられないというのは、ストーリーの鍵でもあるわけだけど、なんというかそれとは無関係に「死」がいわゆる「死神」ではなく、単なる「死」としてきわめて狡猾なキャラクターを持っているというところがすごく面白い。「死」そのものには「死」がない。なので、彼はいつまでも待ち続けて三人の男たちに罠をはりつづけることができる。だからどんな秘宝があろうとも、たとえどんなにそれを使いこなす知恵があろうとも、いつかは必ず人は「死」を受け入れるざるを得ない。あの狡猾さと存在感。油断のなさと欲求の深さ。「死」がこうも形あるものとして感じられたのはこれが初めてのように思う。なんだかまるで、映画版「スカイ・クロラ」に出てきた「ティーチャー」の存在感も彷彿とさせるような。

原作では、その「死の秘宝」に魅せられた人たちの話が大きく背景に横たわってくるのだけど、いかに主役の「愛と勇気と知恵」を持つハリーがそれを克服したとしても、やっぱりおとぎ話の三人と同じ運命をたどることには変わりはない。だからこそ、原作のラストシーンの清々しさがその先を示しているのだろう。

そう。死からは絶対に逃れられないのだから、子を産み、愛し、そして守ろうとするのである。

敵の愚かさはそのことの無理解であったのだが、残念ながらこれは映画では描かれてはいなかった。実にもったいないと思うけど、しかし「愛と勇気と知恵の先にあるものは死」だなんて、ハリウッド映画には確かにできないことなのだろう。

自分には、「愛と勇気と知恵の先にあるものは死」って言葉は、とってもポジティブで前向きで生き生きしている語幹にしか響かないのだけれども。

それにしても、ハリーポッターの原作は確かに長かったけど、大長編グイン・サーガに半生に渡ってつきあってきた自分からすると、やっぱり「ひとときのおつきあい」って程度の長さでしかないんだよなあ。日本は本当に惜しい大長編作家を亡くしてしまったと思う。